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2003/04/01

その後のジョージとお花見

E気配コレクション 030401

この文書は、以前に友人が係わっていた「健然」というサイトに書いたものの再録です。

今年はお花見を2回やりました。それも豪奢なことに、東京と大阪の桜時差を利用して、いずれも満開時のお花見です。もっとも1回は大阪城公園での正式な?お花見ですが、もう1回は近所の公園でしばらくぼおっと花を眺めたあと、とっとと家に帰って

まぶたに焼きついた花を肴に酒を呑んだだけですけど。

Img_000401a 大阪城公園での花見は、集まった七人のうち女性は友人の嫁さん一人だけで、あとは六人の野郎どもという、花よりまわりの女性がまぶしいみたいな「むさくるしさ」だったのですが、それでも実に実に楽しい時間でした。何が楽しかったかと言えば、まずお酒がおいしかったですね。一本目が「久保田」の「百壽」で二本目が「千壽」という出世呑みです。そんな言い方があるのかどうか知りませんが。それから炭火で焼いた焼肉もサイコー。やっぱり本場大阪は城東区の焼肉です。昔、大阪の友人を東京の「こじゃれた」焼肉屋に連れていったら、しばかれそうになったぐらいですもん。さすが東京はおしゃれに上すべりしてるわ……と、それはさておいて。それから、それから「むさくるしい」男連中とは言え、酔ってしまえば「愛くるしい」?……などと、けっこう意味不明な会話でもりあがって、わおわおってな感じです。(上の写真は、大阪城公園ではなくて、目黒川なんですけど……)

……で、肝心の「お花」はどうだったのか。……と言えば、ほとんど見てないんですよね、という愛想なさ。僕の座ったところがちょうど咲き乱れる桜を背にする位置で、ふりむかないと花見ができないわけ。それでも、ちょっと振り返るなり、立ち上がって花の下に行ってみればいいものを、それどころではなかったんです。酒と焼肉と話に没頭していて。

実際、桜の花を見てほんとに気持ちいいと思いますか?

例えば、道の両側に咲いた満開の桜がトンネルのようになって、遠くのほうが白く花煙っている、なんていう光景は、それはそれは美しくてしばらくは呆然としますが、では、それが本当に気持ちいいことなのかと言われれば、いや、じゅうじゅう音をたてる焼肉のほうがもっと気持ちいいし、のどちんこで味わう地酒のほうがもっともっと気持ちいいし、馬鹿みたいに笑い転げるおしゃべりのほうがもっともっともっと気持ちいい、としか答えようがない。それなら、なんで花見なんかするんや。簡単なことですね。焼肉とお酒と馬鹿ばなしの「機会づくり」ですよ。クリスマスといっしょですね。

だから、若いやつらもいっぱい花見に来てるわけ。普通に考えたら「クラブ」(フラットに発音するように)で「ヒップホップ」の「チャット」が「イケテル」やつらに花を愛でるなんて似合いっこないもんね。そんなかれらでも、お酒と焼肉と馬鹿ばなしで盛り上がるのは大好物で、それなら、いつでもどこでもやればいいものを、意外なことに「馬鹿さわぎ」を日常化するのはちょっと気がひけるという小市民ものぞろいで、これは大人もまったく同じことなんですけど

天下公認の馬鹿騒ぎを求めてお花見に

やってくるわけですね。なんか情けないような気もしますけど。

クリスマスにはクリスチャンでもないのに、その後の公認ジョージ(アメリカのおっさんの名前とちゃうで)を期待して、二人で「メリークリスマス」などとほざきつつホーリーナイトを祝うように、歌人でも茶人でも俳人でも廃人でもないのに、「花を愛でる」という言い訳つきで馬鹿騒ぎするために、多人数でぞろぞろ集まってくるんですね。
それにしてもクリスマスと違うところは、ある程度多人数というのが花見のお約束ごとみたいになってしまってるところ。そういえば二人で花見をしてるっていうのは少ないですね。花見には「その後のジョージ族」ってのはいないんでしょうか。どっちかと言うと、花見のほうが「その後のジョージ」(なんとなく高橋真梨子の歌みたいですね)にはふさわしいような気がするんですけど、僕は。

……などと「花見そのものはさして気持ちよくない」説を繰り返してきたわけですが、しかし、しかし、実は

「苦しいほどに気持ちいいお花見」

というものもあるのですよ。……と、これを言いたいために長々と逆説馬鹿ばなしをしてきたのですが、それでけっこう息切れしてきたので、いつものように話の本筋部分は、かなりはしょっていきます。

ちょっとというか、かなりというか恥ずかしいお話をば。むかしむかし、と言ってもお伽話ではありません。僕がうんとうんと若かったころ、吉野山に満開の桜を見に行きました。若いおねえちゃんと二人でです。おねえちゃんと言っても姉ではありません。そこのところお間違えのないよう。で、ですね、しぶうく電車とロープウェイに乗って吉野山まで花を見に行ったわけ。なぜ電車で行ったかというと、その頃、僕はまだ免許を持っていなかったから。

そんなことはどうでもよろしい。

とにかく吉野山の上に行って、中千本だか上千本だか針千本だか忘れましたが、山間を埋め尽くす「あでやかすぎて寂しくなるような薄ピンクのもりあがり」を、おねえちゃんと二人で眺めたときの気分は今でも記憶に残っています。まさに「苦しいほどに気持ちいいいいいいいい」です。
つまり、こういうことなんですね。精神的ハツジョー状態でいかれぽんち気味刹那主義におちいった人間が、同じく刹那的ハツジョー状態で乱れ咲く花に感応することこそ「きもちいいお花見」の正しい姿なのではないか。と………。

昔、司馬遼太郎の本で読んだのですが、平安時代の貴族というのは、ほとんどおねえちゃんと恋をすることしか考えていなかったそうです。うまく添うにせよ袖にされるにせよ、とにかく一年中、恋の狂おしさに浸された頭では、歌でも詠むしかおまへんやないか、というのが人生の中心課題だったようですね。そして、その平安貴族のこころが、日本人の「情緒への過剰耽溺」の原型なのではあるまいか……などと、司馬きどりで言ってみたりするわけです。「お花見」という風習もそのあたりに根っこにあるような気がします。だって「情緒への過剰耽溺」でぱっと想いうかぶのは「みだれ咲き みだれ散りゆく 桜花かな」てな感じですもん。それにしてもへたくそですね。

今のお花見はどうも、そのような意味を失ってきているようです。

「その後のジョージ」と切り離されて以来

『日本の「お花見」はそれ自体の「気持ち良さ」を失い、馬鹿さわぎの単なる機会になり果てた。これではいかん。』
「いい年をしたおっさんが、何を言うてるねん」などという正当な声を遠くに聞きつつ、これが本日の結論でありますと断言して、早々とおしまいっ!

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